有名人の「顔」に厳しかったナンシー関のテレビ批評は現在の言葉狩りルッキズムに耐えられるか【宝泉薫】
他にも、アイドルだったともさかりえを「顔が曲がっている」と指摘したり、アナウンサーの軽部真一を「目に愛嬌のカケラもないので」「一生ブレイクしない」と断言したり、棋士の林葉直子を「老け顔美人棋士」、宇宙飛行士の向井千秋を「妙に若いがその印象はとっちゃん小僧的だ」などと茶化したり。失脚して泣いた総理大臣の宮沢喜一についても、
「まだ羊水に濡れている赤ん坊の頭の形だ。眉毛も薄い。目もいつも半開き。(略)東北地方では痴呆老人のことを『二度童子(わらし)』と呼ぶらしいからな」
と、いじったりした。
作品を論じるにあたっても、月9ドラマの「いつかまた逢える」(フジテレビ系)について、福山雅治よりも椎名桔平の役のほうがカッコいい設定であることに物言いをつけた。「(椎名は)顔がデカいんだもの」として、キャスティングのバランスがおかしいとする不満を述べるなど、彼女においてルッキズムは逆にないがしろにはできないものだったのだ。
なお、こうした芸風が許されたのは、彼女がいわば「ルックス弱者」だったことも大きい。同じ青森出身で、版画という共通点もある棟方志功にもどこか似た風変わりな容貌に、彼女の後継者というべきマツコ・デラックスにも通じる肥満体。ある意味、常人離れした雰囲気を醸し出すことで、その芸風をサンクチュアリ化していたといえる。
ただ、そうは言っても、その容姿をいじられるのはやはりイヤだったのだろう。デーブ・スペクターのことを「面白くない」と書き、デーブから反論されたことへの返答として、彼女はこんな異議を申し立てた。
「あとさ、落とし込みみたいなとこに『太ってる』ばっかり持ってこられてもねぇ。昨日や今日急に太ったワケでもないし」
もっとも、これは彼女が容姿いじりをモラル的に糾弾したということではない。その怒りはなるべく抑えつつ、反論として芸がないと皮肉ろうとしたわけだ。一方、デーブにも一理あると思うのは、ナンシー関の芸風とその容姿は絶対に切り離せないものだからである。それこそ、太るのにも理由があるし、期間がかかる。彼女の感性同様、体型も理由と期間によって育まれてきたのだ。
そもそも、人間の本質に迫ろうとすれば、見た目にも当然こだわることになる。本質と見た目は無縁ではなく、本人も他者も見た目を意識しながら生きているし、見た目は人と人の関係性にも大きく影響するからだ。それがわかっているから、彼女もルッキズムをないがしろにしなかったのだろう。